ハリウッド映画を超えるエンターテイメントは存在するか?

ひでぇ、もしこの話が本当なら、日本の文学小説に未来はない気がする。

ガガガトーク1 冲方丁

冲方:いや、それは、そうでもないんですよ。そこまで狙ってやれる編集者は少ない。そういう意味では、編集者ももっと数が出てきて、それで淘汰されないと、いけないんでしょうね。現状では、作家の方に注文しちゃうんですよ。読者がわかりやすいようにしてくださいって。
僕、『マルドゥック』でずっと「なんで天井歩くの?」って言われ続けてきたんですけど、『マトリックス』が出てから、ぱったり言われなくなったんですよね。

小説が世の中に届くまでには、編集者というフィルター、出版社というフィルターを乗り越えて「売れる商品だ」という判断が下された後に、一般読者に本という媒体で出荷される。

さらに良い小説かどうか、というのは読者のフィルターによって篩にかかれることで評価が下される。

もしこの話が本当なら、(たぶん丁さんが感じているのであれば本当だと思うけど)ハリウッド映画に小説は勝てないと思った。

理由は以下のとおり、

  • 映画は映像であり、分かりやすく視聴者に響く
  • 制作費、プロモーション費、ともに桁違いの予算を投入することができる
  • 映画は世界中のユーザに簡単に届くメッセージである、それは世界で最大規模のエンターテイメントである

小説家が書いた小説に対して、編集者がまず判断を下すというルーチンが文化として根付いている限り、そのフィルターを超えるか否かは、その編集者にかかっているといっても過言ではない。

編集者といえど、人間だ。

編集者の世界、価値観によるフィルターがかかるということは、やはりその人の感性に影響を与える窓口、つまりアンテナの規模という点で、活字という媒体がハリウッド映画に勝てる要素は少ない。

上記、冲方さんのメッセージにあるように、日本SF大賞を受賞した「マルドゥック・スクランブル」でさえ、編集者に理解されず、転々とした経緯をたどっているのは、日本の文学を語る上で忘れてはならないし、今後乗り越えていかなければならない壁であろう。

本文章を読んでいると、そういう文化に対して闘う冲方丁さんのスタンスが読み取れて面白い。

いや、メディアを超えて活動する丁さんならではの視点というべきか。

まだ、一話しか読んでいないので、続きも早く読みたいところではありますが、とりあえず今は、「マルドゥック・ベロシティ」堪能させていただきます。

コレ読み終わったら感想送ろう。久々にメールします。はい。

マルドゥック・ヴェロシティ〈1〉 (ハヤカワ文庫JA)